切削加工技術者による研究会 切削油技術研究会

企業の枠を超えた技術者が集まって課題解決を図り、その活動を通じて技術者の育成、日本のものづくりに貢献。

切削油技術研究会

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歴史

終戦~廃墟の中から

富士山

1945年8月(昭和20年)、甚大な損失をもたらした末に終結を迎えた太平洋戦争。
のちに日本の基幹産業に急成長する自動車工業を例にとれば、物資が窮乏していた戦争中から乗用車の生産は制限されていました。
それは限られた資源や設備を軍需用トラックの生産に充てるためです。

戦後、ポツダム宣言を執行することを目的として、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に入りました。
連合国軍の占領下に置かれた日本は対外関係を断たれ、海外との間の人・資本・物資の移動は厳しく制限されました。
戦勝国への賠償に充てるため、民需への生産設備の転用も限定的なものに止まったのです。

GHQから乗用車の生産が許されたのは1949年(昭和24年)のこと。
それでも物資の不足により、当初の生産は微々たるものでした。
朝鮮戦争が勃発したのは翌1950年(昭和25年)。
アメリカから大量の物資を受注して特需ブームに沸いた日本は空前の好景気を迎え、特に機械産業は急速に活況を呈しました。
戦中から戦後にかけて中断されていた欧米からの論文、専門誌、製品カタログなどが続々と入るようになったのは、ちょうどその頃です。

新鮮な技術情報を渇望していた日本の技術者たちは、貪るように読み漁りました。
それと同時に生産技術、とりわけ切削加工の分野で大きく欧米に立ち遅れていることを思い知らされたのでした。

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切技研の胎動

若手技術者だった中村健三(三菱重工業=のちの切技研第2代会長)もそのひとりでした。
1953年(昭和28年)、アメリカから手に入れた切削油剤を試した中村は、国産品に比べて構成刃先の発生が少なく、抜群の仕上げ面が得られることに気づきました。

切削油剤の問題は各社共通なので、切削好きな技術者に化学屋さんを交えて勉強会をやりたいと言い出したのは中村です。
それを感じ取ったのは金山佳也(ユシロ化学工業)。
その金山が森本貫一(ユシロ化学工業の創業者)を中村に引き合わせたのです。
森本は金山といっしょに何度も中村の職場を訪れ、「面倒なことは引き受けるから、仲間を集めて勉強会を作れ」と勧めました。

これが間もなく誕生する切削油技術研究会(以下、切技研)の胎動です。
まさに「大河の流れも一滴の雫から」を地で行くようなスタートでした。

すべてを呑み込んで中村の背中を押し、今日ある切技研の礎を築いた森本は「切技研の父」と言うべき人でしょう。

02_切技研の父・森本貫一さん
切技研の父・森本貫一

立ち上がった技術者たち

当時は終戦からの復興期にあったとはいえ、生産設備・工具ともに稚拙で切削条件も低く、精度や能率を確保するために、いかにして構成刃先をコントロールするかが大きな関心を集めていました。

また工程管理や品質管理も低レベルで、これも生産性が上がらない原因でした。
その課題に最も直接的な影響を及ぼす切削油剤について掘り下げてみようと、技術者有志が立ち上がったのです。

中村の熱意を汲んだ金山が奔走し、旧知の仲だった河合元次(日本鋼管)、洞田基忠(沖電気)、伊藤明と小島弘文(日産自動車)、駒宮四郎(三菱日本重工)、大木信次(NSK)、高橋保之(いすゞ自動車)、中山壮一(民生デイゼル)という面々を集めました。いずれも当時30歳前後、新進気鋭の技術者でした。

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03_第1回切削油技術研究会〜1954年(昭和29年)
第1回切削油技術研究会~1954年(昭和29年)

1954年(昭和29年)11月10日、東京・八重洲の国鉄労働会館で記念すべき第1回切削油技術研究会が開かれました。
発起人は前述の中村、金山、河合に和田栄治(石川島重工)を加えた4人。
これが切技研誕生の瞬間です。

このときは硫塩化油の話題が中心でした。以下のような報告があり、活発な質疑応答がおこなわれました。
現在総会でおこなわれている専門委員会報告の原型と言うべきものです。
・米国の切削油の分析結果について(富士川潔=ユシロ化学工業)
・硫化油についての見解(中村健三=三菱日本重工)
・極圧添加剤について(桜井俊男=東京工業大学)
第1回ということもあり、本題に加えて会の運営についても話し合われました。
内規が定められ、会員の確認がおこなわれたという記録が残っています。

出席者は26名プラス事務局数名という小規模のスタートでしたが、これがその後も脈々と受け継がれる切技研の源流になったのです。

初期の総会〜1960年(昭和35年)
初期の総会~1960年(昭和35年)

高度成長とともに

2年後の1956年(昭和31年)には早くも15名の専門委員からなる専門委員会が設置され、現在の基礎が作られました。
場所は発起人の一人である河合元次の取り計らいで日本鋼管の高輪寮。
その年には同じ日本鋼管の伊豆山寮で初めて専門委員会の合宿がおこなわれています。
専門委員会では早くもアンケートによる実態調査、文献抄読、専門委員会社での実験を通して調査・研究をおこなっています。

今も受け継がれる切技研独自の調査手法がこの頃には確立していたわけです。

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05_黎明期の専門委員〜1960年(昭和35年)
黎明期の専門委員~1960年(昭和35年)

中村健三(右から2人目=立っている)、河合元次(右端=立っている)、竹山秀彦(前列左から2人目=座っている)、森本貫一(竹山の背後)、和田栄治(前列右端=座っている)、金山佳也(後列左から2人目=顔だけ見える)らが並んだ貴重な写真。

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初期の合宿〜1960年(昭和35年)
初期の合宿~1960年(昭和35年)

工業技術院機械試験所の竹山秀彦が切技研の活動を高く評価し、あらゆる面で支援したのもこの頃からです。
創立15周年記念総会(1969年11月)にはアメリカからMr.Clyde A Sluhan(MasterChemical Corp.)とDr.William W Gilbert(G.E.Mgr., Machining Development Lab.)を特別講演者として招聘しています。

また創立20周年記念総会(1974年10月)には同じアメリカからMr.Robert L. Vaughn(Society of Manufacturing Engineers)を招きました。
それは日本の技術者を本場の技術に触れさせたいという竹山の尽力によるものでした。 1966年(昭和41年)には切技研として処女作となる「D.R.T.MANUAL」が発刊されています。これは創立から10年あまりの調査活動の結果をまとめた穴加工の技術書です。
のちに「穴加工ハンドブック」、「穴加工皆伝」にその座を譲るまで、バイブルとして輝く名著になりました。

基幹産業の自動車を考えれば、創立当時の生産台数はわずか7万台。ところが25年後の1979年(昭和54年)には1,000万台に到達し、その半数を輸出しています。
切削加工技術の進歩に呼応するように工程管理や品質管理が飛躍的に進歩したことが世界に認められた結果でしょう。
これを考えれば、切技研の地道な活動が国際競争力を押し上げる上で大きく貢献したと言っても過言ではありません。

実は創立以来、総会は夏と年末の毎年2回開催されていました。
写真は1969年7月(昭和44年)に行われた総会の様子。
ちょうどアポロ11号の月面着陸成功で世界中が湧きかえっていた頃です。
当時は模造紙にマジックインキで書いた資料や黒板を用いての発表です。
パワーポイント全盛の現在を考えると、隔世の感があります。
この年を最後に、総会は毎年末の1回だけの開催で定着しています。

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07_最後の夏総会〜1969年7月(昭和44年)
最後の夏総会~1969年7月(昭和44年)

空洞化に向き合う切技研

高度成長を謳歌していた日本。
ところが1980年代中盤には急速な円高で価格競争力を失った輸出産業の海外移転が相次ぎ、産業の空洞化が懸念されるようになりました。
機械加工の現場も例外ではなく、技術者はどう対応すべきかということが切技研での議論のテーマになりました。

それらの背景を踏まえ、総会での専門委員会報告はプレゼンテーションとしてのストーリを固めることに重点が置かれました。
時代の変化を反映した大テーマを設けたり、テーマ選定の背景の説明にも力を入れるようになっています。

空洞化やバブルの崩壊により、現場技術者の原点に返って足元を見つめ直そうとする活動にシフトしたのです。

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それと並行して、切技研内部でプレゼンテーションをレベルアップさせる機運が生まれたのもこの頃です。
徹底的にストーリを練ると同時に、「見せる工夫」にも力点が置かれはじめました。
専門委員会の討議や総会の発表にOHP(オーバヘッドプロジェクタ)が使用されるようになりました。

最初は単純に手書きの資料を白黒のOHPシートにしたものでしたが、1980年代後半にはそれがワープロ打ちになりました。
1990年代に入ると、色付きのセロファンをOHPシートの裏面に切り貼りしてカラーにする方法がとられました。これは切り貼り自体に手間がかかる上に、失敗すると気泡が入ってしまい、台無しになります。

総会が近くなると、OBや運営委員の指導が頻繁におこなわれ、資料の手直しが必要になります。
パワーポイントが普及した現在からは考えれませんが、発表者はたいへん苦労したものです。

新たな高みを目指して

2000年代には専門委員会報告はパワーポイントや動画を駆使したものに変貌を遂げ、内容も著しく充実しました。
特に普及が始まった高速度撮影の技術が専門委員会報告に活用されたのもこの頃です。

2010年代に入ると、専門委員会報告はオリジナルの切削実験による検証を伴うものが主体になり、現在に至っています。
その切削実験も、周辺環境の変化や時代背景が現場技術者に突きつけている課題を克服することにつながるテーマが選ばれています。
同時に、高速度撮影によって現場の切削現象を可視化して検証し、理論的に解明することが積極的におこなわれています。

創立当初からの刃先に拘る精神、常に周辺環境や時代背景を注視する切技研の取り組みの流れが現在も息づいていると言えます

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討論は続く

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